blogで個人のサイトを作ることが当たり前になってからだいぶ経つ。ソーシャルブックマークの登場とともに、個別記事単位での価値が重視されるようになり、例えばLifehacks、プログラムやデザインのテクニック、社会問題への意見の表明などの「役に立つ」「論理的である」「知識の習得ができる」ようなテキストが多くのアクセスを稼ぐblogの条件になっている。
その中で、インターネットが一般的になるのとほぼ同時に生まれた「個人の生活を綴った日記」というジャンルのテキストは、しばしば「チラシの裏にでも書いてろ!」という扱いを受けることも多い。
他人の今日食べたものや、誰と会ったかなんかに興味がない。それは公共性がないテキスト、ネットワークリソースの無駄だと言う意見もある。
確かに、書き手のキャラクターや環境などを予め知っている友人や家族にだけ見てもらえば良い、というような意図で始められたサイトがある。個人情報やプライバシーの流出のリスクを考えると、全世界に発信されるインターネット上よりも、簡易的なアクセスコントロールができるmixiのようなソーシャルネットワークサービス上で書いたほうが良いとされる意見もよくわかる。
しかし本当に「Web日記」には価値がないものなのだろうか?
自分には既に7年近く読んでいるWeb日記がいくつかある。それらに書いてあることは、本当に他愛もない個人の日常生活だ。その日にあった出来事、子供の成長、旅行の話、美味しかった食べ物…
書き手とは実際に会ったこともなければ、コメントやメールのやりとりしたこともない。自分と趣味や環境が似ているということもない。
読み始めたきっかけは本当にささいなことだ。どこかのサイトからリンクを辿ってきた、たまたま何かに紹介されていた、などだったような気がする。
何故7年も読みつづけてきたのか。
ある一日だけを取り出してみれば、そこに情報としての価値は見いだすことができない。しかしテキストを読むほんの1分間が1年間続けば、356分。これは毎日1分間、その人の話を聞いているようなものだ。家族や友人からだって、毎日話を聞くことなんてない。
もちろん日記に書いてあることだけが全てではないけれど、かと言って実際に会って話す人だって全てを語るわけではない。
一方通行の定期報告のみの関係は、決してリアルな友人ではないけれど、そうやって彼らの毎日話を聞くことによって、書き手に対して何らかの感情はわいてくる。時間の移り変わりによって、書き手の考え方の変化を感じたり、反発したり、共感したりするようになる。名前も知らない子供の成長を喜んだり、ペットの行動に笑ったりする。
そこに価値はないだろうか?
「Web日記」の価値は継続にある。それは書き手にとっても読み手にとっても。
「チラシの裏」も、それが何千ページにもなれば、私小説や日記文学にもなりうる。
だから簡単に他人には価値がないと決めつけてmixiなんかのクローズドな空間に引っ込まないで(あるいは引っ込ませたりしないで)欲しい。
そして書くことを続けてほしい。どんなことでも、書かれなければ生まれることもない。
ということで、私も「日記」を書いている。