ふたつとない日常: 図工に評点はなくてもいいと思う
「図工」って言葉の響きなつかしいな…
確かに小学校の時の図工の評点なんて、まったくあてにならない。
私の評点は5段階中の3だったと思う。
それでも実技試験に合格して(浪人したけど)美大に進み、今はまがりなりにもデザイナーとして仕事をしている。
(高校の時に美術の評点が2だったのは授業がかったるくてさぼってばかりだったからだ)
ただ、評点があてにならないからと言って、小学校で美術教育が必要ないとは思わない。
なぜなら将来的に、たとえ美術に関係しない仕事についたとしても、美術的なセンスが身に付いていたほうが便利なことが多いからだ。
例えば仕事で製品のパンフレットをデザインする人は少ないだろうけど、パンフレットのデザインを承認する立場の人は多いだろう。
『君の書いた企画書を読んだんだけど、なんか色使いがダサいし、伝えたい要点がわからない』って言われたって人は多いかもしれない。
もっと身近な例で言えば、年賀状ソフトのテンプレートじゃなくて、もっと自分らしいオリジナルの写真や絵を使いたい…と思っている人だって沢山いると思う。
あるいは部屋のインテリアがどうにも上手くまとまらないとか、自分に似合う洋服の色選びがわからなくてなくて損している人もいる。
なのに「自分には絵心とかデザインのセンスがないから…」と、あきらめてしまっている人のなんと多い事か。もったいない。
しかし現状の日本では、将来のそんな状況を見越した、「普通の人」に本当に必要とされる美術教育がなされていないのでは、と思う。
(今の小学校での図工がどんな授業かは良く知らないので、これは20年前に私が通っていた3校の小学校での体験と、子どもに美術を教えている知人の話なんかを元に書いています。でも大して変わりはないんじゃないか、という推測を元に。)
まず思いつくのは、「創作」に対して幻想を持ちすぎているのではないかということ。
「子どもの創造力を高める」とか「創る事の楽しさを知る」とか、創作することへの幻想みたいなものがありすぎるんじゃないか。
もちろんそれはある面では正しいけど、「まず創ってみる」というところから「上手く創れないから楽しくない」っていう段階に進んだ子どもに対してのフォローって、小学校ではまるでない。
「下手でもいい」って大人は言うけど、自分でも下手だと思うのに創りつづけるのって、大人だろうが子どもだろうが、大抵の人には苦痛だと思う。
「上手いね」とか「よくできたね」と他人に褒められる体験を積んでこそ、創作の楽しみも増すはずだけど。
(もちろん誰からも褒められなくても内から溢れ出る衝動で何かを創らずにはいられない子どももいるけどそれは少数派)
本当はちょっとした「技術」や「知識」があればもっといいものができるはずなのに、大抵の小学校ではその「技術」も「知識」も持った先生はいないし、それを他の教科で忙しい先生に求めるのも酷な話だ。
それから、鑑賞教育の不在。
海外旅行でヨーロッパの美術館へよく行くんだけど、どの美術館でも必ず見かけるのは、学芸員に引率されている20人くらいの小学生の集団。ゆったりとした展示室にはソファがあって、子どもたちはその周りに思い思いの姿勢で座ったりしている。学芸員は絵を指差しながら、その絵の主題や、見るべきポイントなんかを話している。もちろん子どもなのでちょっとぐらいは騒がしいけど、だいたいはみんなそれを興味深げに静かに聞いている。
これが中学生くらいの子どもになると、4〜5人のグループになって、メモを片手に美術館の中を自分たちで見てまわっている。自由研究なのかな。
日本の美術館ではあんまりこんな光景は見ない。
さらに言うと、「なんか話題になっているから見に行くか」と、せっかく美術館に足を運んだ大人達でさえ、一枚の絵の前でじっくり「絵を見る」ということができない人がいる。うっかりすると絵そのものを見ている時間より、その絵のキャプションを読んでいる時間のほうが多かったりする。
それは「絵の見方」を知らずに育ってきてしまったからなんだろうと思う。
ちなみに、私も受験のために本格的に美術を勉強しはじめるまで、「絵の見方」がわからなかった。
創る事はそれなりに好きなんだけど、ピカソとかミケランジェロとかマチスのどこが良いのかがわからなかった。写真みたいにそっくりに描けている絵は「すごいな」と思えたけど、そうじゃない絵は何がすごいのか理解できなかった。
それが、「絵の見方」を身につける事によって、びっくりするぐらい一枚の絵を楽しんで見る事ができるようになった。
素晴らしい一枚の絵から読み取れる情報量はものすごく沢山あって、色使い、線のリズム、質感、構図、空間感…そんなものを離れたり近づいたりして見つけたり、自分が描くことを想像してその過程をなぞってみたり、そういうことを含めて「きれいだな〜かっこいいな〜」と、うっとりとドキドキするようになった。
それはただ「美術」に対して有効な見方じゃなくて、例えば道ばたの街路樹に対しても、会話している相手の指先とかに対しても、人工・自然を問わず素晴らしい造形物に対してうっとりドキドキするようになった。世界って美しくて面白いものが一杯ある。
私のフェチシズムっぽいそういう見方は置いといたとしても、「良いものを良いと認識できる」っていう「見る力」っていうのは、実は「創る力」と同等に持っていないと、自分が創ったものの何が駄目なところかわからないので、結果的に「創る力」を伸ばすことはできないはずだ。
それはいろんな味の料理を食べた事がない人が、複雑な味覚を持つ事ができず、おいしい料理を作ることができないように。
美術教育でももうちょっと鑑賞に力を入れてもいいんじゃないのか。
「創ること」と「見ること」のバランスが必要だってこと。
「技術」「知識」「絵の見方」なんかを今の小学校の先生に求めるのは難しいのなら、そこらへんにゴロゴロしている(失礼)滅茶苦茶絵のうまい美大出無職の人達を活用すればいいのに、と思うけど、それは現状の教育制度の中ではなかなか難しい話なんだろうなあ。